世界有数のラジウム温泉が湧出することによって、大きな恩恵を受けてきた本町。ラジウムの発見者マリー・キュリー夫人の功績をたたえるとともに、温泉の恵みに感謝する祭典として始められたキュリー祭=B
 今回は、今年で第四十八回を迎える三朝温泉の夏の風物詩キュリー祭の歴史を訪ねてみましょう。

キュリー祭始まる

 キュリー祭が始まったのは、まだ三朝町が誕生していない昭和二十六年七月四日です。キュリー祭を始めるきっかけは、当時の三朝村長藤井順一氏の趣意書に記されています。キュリー祭は、「ラジウムに対して感謝することを広く世界に発信し、温泉報国”三朝”の実を挙げる」ことを目的に創設されました。
第1回キュリー祭 写真に献花する中学生

キュリー夫人胸像完成

  その後キュリー祭は、市町村合併等で中止されますが、昭和三十四年十一月二十九日にはキュリー夫人の胸像が完成し、その除幕式と併せ、第三回キュリー祭が行われました。
キュリー夫人胸像に献花する駐日フランス大使館関係者

第十回催しを充実

 この後回を重ねるうちに、記念式典に加え、様々な催しが開催されるようになります。当時の開催日は、夫人の命日である七月四日でした。
 大きな変化があったのは、昭和四十一年七月に開催された第十回の時です。この時期の三朝温泉は”夏枯れ”で、観光客の入り込みが年間でも一番少ない時期であり、夏景気を盛り上げることをねらいとして、のど自慢大会やおどり大会などが開催され、期間も三日間となりました。

 昭和四十六年からは、梅雨期を避け、天候が安定する八月四日に変更して開催されました。

第二十回を記念して

 第二十回を迎えた昭和五十一年には、三朝温泉の夏祭りとして町民の多くが参加するイベントになっていました。
 この年は、三朝小唄ができて五十周年の記念すべき年でもあり、特別歌謡ショーなどが企画されました。
日本ビクターの市丸、西川峰子らを招いて歌謡ショーを開催

町民参加を推進

  第二十五回の昭和五十六年には、マンネリ化の進むキュリー祭を再検討し、三朝温泉の宣伝を全面に出した従来のスタイルを見直し、”町民みんなの温泉”として認識を改め、「いで湯の恩恵に感謝」「わが住む町の再確認」「健康づくりの啓発」をテーマに掲げ開催。この年の催しとしては、地域づくりに功績のあった女性を表彰する「キュリー祭賞」の創設やパブロ・ピカソの「貧しい食事」などが展示された「EVE世界の巨匠展」
が開催されるなど盛りだくさんの内容となりました。
西小学校の金管バンドが式典を盛り上げる

松村町長に
 シュバリエ勲章

 また、翌昭和五十七年には、キュリー祭を通じて日本とフランスの友好に貢献したとして、松村町長に国家功労賞・シュバリエ勲章が贈られ、キュリー祭式典の席上で伝達されました。三朝町のキュリー夫人の母国フランスとの親交がフランス国家に認められたことになります。
シュバリエ勲章を受ける松村町長

仏国との交流

  キュリー祭には、毎回フランス大使館関係者が招待されていますが、昭和六十二年の来町の際には、町内の企業や保育園を視察するなど、ひと味違う趣向になりました。この年以降、キュリー祭のテーマは「フランス国との友好」が全面に出されます。
 昭和六十三年からのキュリー祭は”キュリー祭・フランスフェスタ”と名称を変え、期間も七月三十日から八月七日までの九日間となり、フランス物産館やフランス名画祭などが催され、「フランス文化」を紹介するものとなりました。
 平成元年には、キュリー祭がはじまって以来初めて駐日フランス大使(ベルナール・ドラン閣下)が来町され、キュリー祭・フランスフェスタは、かってないほどの盛り上がりをみせました。
 また、三朝町は、平成二年にフランス国ラマルー・レ・バン町と友好姉妹都市を提携。このきっかけとなったのは、キュリー祭の取り組みが大きな要因といえます。
観光商工センターにフランス物産館がオープン
ベルナール・ドラン駐日フランス大使が温泉街を散策

温泉文化を考える

 平成十年以降、キュリー祭は、従来ほどの派手さはないものの、三朝小唄を作詞した野口雨情や三朝温泉の文化に着目した内容など、趣向をこらした取り組みが繰り広げられています。
 平成十五年には、キュリー夫人の功績をたたえる本来の目的に立ち返る意味から、追悼の式典だけは、七月四日に開催されました。
 ”夏祭り”と”追悼式典”の組み合わせを考えてみる時期かもしれません。
 今年のキュリー祭の追悼式典は、八月四日午前十一時からブランナールみささで開催されます。
三朝町の取り組みに感謝の意を表すジャック・ラプージュ公使(平成10年)
献花するイヴ・ドゥロネ公使(平成12年)
キュリー祭を楽しむフランス国ラマルー・レ・バン町長夫妻(平成12年)